Si, Si, signorina




「うーん……」
「何が納得いかないんだよ?」
「いえ……べつに……」
 ミーティングルームの長机に頬杖をついて、唇をとがらせる。
 大きな目と小さな鼻、桜色の首筋、十代特有の自然な髪の毛。その上にはお気に入りの赤いリボン。子供っぽいねと冗談で言ったら、本気で落ち込まれたことがある。
「別にって事はないだろ。そんな顔して」
 向かいから肘をつんつんと万年筆で突く。すいません、といって肘を外して手元の資料を何度も撫でる。
 凹んだ頬が、みるみるうちに元の柔らかさに戻っていく。彼女より一回りも年上の俺だったら、風呂に入っても凹んだままだ。スキンケアまではいかなくとも、食生活くらいは改善しようかな、と苦笑いをする。
 なんですか? と彼女は赤くなってしまった頬をさする。その非難めいた視線に対して首を横に振って、彼女の手元から来週に行われるイベントの資料を自分の方に引き寄せる。
「で、何が納得いかないんだ?」
「納得というか」
「というか?」
「メイド……っていわれても」
「いわれても?」
「なんかこう、リアリティがなくてよく分からないです」
 ふむ、と資料を斜め読みする。たいした事は書かれてない。
 彼女は背景だ。メインのアイドルが歌って踊って宣伝をする。それをバックで賑やかすメイド軍団のうちの1人。本当にたいした事のない仕事だ。
「リアリティはともかく」二枚目をめくって彼女に返す。「このメイドっぽい衣装を着て、ステージに立つ。そして言われたとおりに動く。それだけだよ」
「それは、なんというか、不誠実ですよ」
 資料を大事に受け取ると、衣装のスケッチを眺めて頬をゆるませる。
「せっかく、こんな可愛い衣装を着れるのに」
 ……まぁ、言いたいことは色々あるけど、彼女が幸せそうだからよしとしよう。

「プロデューサさんは、メイドって分かりますか?」
「お帰りなさいませ、ご主人様ぁ。って奴だろ。秋葉原によくある」
「うーん。でも嘘っぽいですよね、それ。私のイメージだと、ご主人様に誠心誠意、愛を込めて使える人って感じなんですけど。本物って何なんでしょう?」
 本物ねぇ。2人をつなぐ絆は愛ではなく、金銭と労働をトレードする雇用契約だろうな。と思ったが、彼女がふて腐れそうなので、それは言わないでおく。

 えーーーーーっと。

「あれかな」

 あの本は何時何処で読んだのか。
 大学時代のレポート課題だっただろうか。
 暇つぶしにいった市立図書館だったかな。
 否、スキー旅行へ行ったときに泊まった民宿に置いてあった様な気もする。
 本なんてまったく読まない俺だから、題名も作者も覚えていない。


「雨の中、イタリア人のメイドが三毛猫を抱えてくるんだ。外で雨にふるえている三毛猫が可愛そう、とかアメリカ人の女主人に言われて」
「三毛猫ですか?」
「うん、たしか」
「三番書記ですね」
「何?」
「いえ、何でもないです」
「いや、でもあれもホテルの女中だったっけ。全然覚えてないなぁ」
 はぁ、と彼女は答える。きっと俺が何を言っているのかさっぱり分かっていないんだろう。

「まぁとにかくあれだ、今日はもう帰ろう。駅まで送ってやるよ」
「あ、はい。ありがとうございます」
 そういって彼女はわたわたと机の上を片付け始める。あまりに慌てるので、ペンは落とすし資料は空を飛ぶ。
「慌てなくても良いよ。俺は車まわしてくるから」
 手元の荷物を手早くまとめて立ち上がる。
「え、あ、あの、ちょっと待って下さい」
 彼女はより散らかった机の上に両手を置いて、こちらをまっすぐと見つめる。
「どうした?」
「プロデューサさん!」
 ばしんっと机の上が強く叩かれ、衝撃で消しゴムが転げ落ちる。見つめすぎて、少し涙目になっている。
「何?」
「い――」
 彼女は真っ赤になった顔を下に向ける。髪の毛がゆれて、柑橘系の香りが広がる。
「い、いってらっしゃいませ! ご主人様!」

 室内に広がる、無言の間。

 俺は無言のままで彼女の頭をこつんと小突く。
「あいたっ! 何するんですかぁ!」
「意味の分からん馬鹿なことをやるからだ」
 両手を頭にやって大げさに痛がる彼女を置いて、俺は上着を肩に引っかけ出口へ向かう。2、3回ため息が出てきた。背の向こうで彼女がむーっと唸っているのがわかる。
 俺はもう一度盛大にため息をついて、後ろを振り返らずに声をかける。

「今日はもう遅いから、家まで送ってやるよ」
「…………へぇ!?」
 じゃぁ俺は先にいくぞ。といって部屋から出る。

「へ? いやでも、こんな時間で。 あ、その、それなら、お父さんとお母さんに連絡しなきゃで。え? って事はお父さんとお母さんに挨拶って事で? あれ? それって、その、えぇぇ! 私どうしたら――ってうわぁぁ!」

 なにやらドアの向こうで春香が大騒ぎしている。今日はまた一段と盛大にこけたな。
 缶コーヒーを一本飲むぐらいの時間は余裕でありそうだ。



 ――俺と彼女との思い出は、こんな感じだ。