goodbye my sister 後編


「だってよ?」
「いやーへっへっへ」
 よっこいしょ、と言いながら兄ちゃんと対面側の机の下から身体を引き出す。
「あいたたた、もー、二人とも話が長すぎだよー」
 身体をぐーーっと伸ばす。背骨がみしみしいって思わず口から変な声が漏れる。
「あ、今のなんか色っぽくない? どうどう? セクシー?」
「独り言を意図せず口にしてしまうのは痴呆の始まりだぞ、亜美」
「それはちょっと行き過ぎだよー」
 ほんの2,3m先にいる真美にいつばれるのか。これほどのどきどきは久しぶりだった。アメリカンジョークによく出てくる間男っていうのはこういう感じなのかもしれない。
 真美に見つからない様にわざわざ旧社屋のレッスンルームを借りて練習をしてたのに。上がったら急に真美が入ってくるのだから、慌てたよ。
「隠れる事ないだろうに」兄ちゃんはめんどくさそうに口を開く。「途中で飛び出てくるもんだと思ってたんだけどな」
「あはは、真美はきっと驚くね」
 うん、きっと驚いてしまうんだ。近くに私がいるとは思わなくて、驚いてしまうんだ。それがちょっと辛くて、身体を動かす勇気が私にはなかった。
「ちょっとね、タイミングを見失って」
 私はひらひらと手を振る。雨が窓ガラスを叩き始める。突然の大きな雨粒。きっと消えるときも突然なんだろう。
 やっぱり兄ちゃんはノートから目を離さない。身体を隠してた机の上に膝立ちして兄ちゃんの作業をのぞき込む。なんかノートの上に矢印がいっぱい引いてあってその周りに文字がごちゃごちゃいっぱい書いてある。利き手に持ってるのは、ぼろぼろになった高くも安くもない日本のメーカーの中途半端で微妙な万年筆だ。その必死に高級筆記ですよ、とアピールするようなフォルムは、とにかく【ださい】の一言だ。でも、微かにつんっと漂うインクの匂いは、昔から嫌いではない。
「うーん? 何これ?」
 めーいっぱい目を細めてみるが、何が何だかよく分からない。
「デビューを予定している新しいユニットの計画書だよ」
「ユニット? デュオ? トリオ?」
「トリオ。雪歩と後二人の新人で」
「へー、雪ぴょんユニット組むんだー」
 これって解禁前の情報だよね? わーお。スクープだよ。記者へたれ込みだよ。問題としては二十代のDランクアイドルと新人二人でのユニット結成とか誰も興味がないって事だね。残念ながら。
「雪ぴょんがユニットかー、良い感じ?」
 兄ちゃんは大きな大きなため息をついた。あらま、触れて欲しくない事でしたか。
「……お年頃の女の子が三人そろって仲良くできると思うのか? 元女の子」
「ひっどいなー、私まだ10代だよ?」
 つーか雪ぴょんの方が年上じゃん。
「知ってるよ」
「さっき真美に聞いてたときに驚いてたじゃん……」
 そっか、まだAランクアイドルを目指しているんだ。別に私だって諦めている訳ではないけど、でも、こんだけ一生懸命練習して、頭使って、キャラ作りも勉強して、すっごく忙しくて、それでも上は遠い。うちのプロには二人のAランクアイドルがいるけど、正直な話仕事の上では手が届かないどころか影も形も見あたらない。最近は思う。Aランクアイドルってもう人ごとなんだな。
「やっぱAランクってすごいよ」
 よく分からないノートを見つめたまま、唇をとがらせる。そんな事、思ってもないくせに。でも、それを言わないと、思っていないと、私の今は嘘になる。
「ほら、あの大型新人【Aランク】の星井美希。結構仲が良いんだけどさ、もうなんか全然、何もかも違うの。歌がうまくて可愛くて、何故か存在感というか、まさにアイドルって感じ。いや、つーかそれ以前に会社のプッシュがおかしいんだよ。デビュー前から業界あげての星井美希プロジェクトだもん。もう会社一つ立ち上げるのかって感じ。ここにいたらわかんないかもだけど、すっごいんだよ、向こうでは。社ビル丸ごと星井美希」
 そりゃ売れるよ。だって売ると会社が決めて売れるように準備したんだから。
「そっかー、すげーな。俺も一回会ってみたいわ」
「んふふー、そりゃ無理だよ、こんなところでだらだらしてる平Pとは住んでる世界が違うんだから」
「うっせー。みてろよ、今年の忘年会で挨拶してやるから」
「シカトされるね。私ならシカトする」
「星井はそんなガキっぽい事はしないさ」
「私をプロデュースしてたときとだいたい同い年だよ?」
「実年齢と精神年齢と肉体年齢は違うさ」
「最初と最後は重ね重ね同意だけど、まぁ、あんまり期待しない方が良いよ。……そもそも同じ会場に呼ばれるの?」
 たぶん兄ちゃんは本気では言っていない。ミキミキにはあってみたいのかもしれないけど、たぶんそれだけ。ミキミキがどんなアイドルなのか、なるのか、そんな事は資料を取り寄せればすぐ分かるんだろうし、もしかしたら既にとっくの昔に確認しているのかもしれない。
 けれど、私だって別にミキミキに嫉妬してるわけじゃない。会社がそうしようと思って売ってるんだから、それは、そうなんだ。私が仕事としている事、目指している事とは何も関係はない。凄いとは思うけど、羨ましいとは思わない。でも、それでも愚痴りたくはなる。話を、誰かに聞いてもらいたくなる。
「ミキミも凄いけどさー、うちのもう1人のさー」
「亜美、お前そんな話がしたくてここに来たのか? わざわざ真美に隠れて」
 兄ちゃんが初めて顔を上げた。ぱしんっと目と目が合う音がしたような、そんな気がした。昔も今も何十センチもあるこの距離。でも、兄ちゃんが座って私が机の上にのれば、兄ちゃんが見上げて、私が見下ろすこの距離だ。――4つの瞳が、2つの瞳と。
 私たちの好きな、安いインクの匂いがする。
「お、雨やんでんじゃん! 真美ってば残念しょー」
 机から飛び降りて、窓へ駆け寄る。ガラスをたたく音が減って、雨垂れの筋だけが残っている。もともとあまり強くはなかったけど、通り雨だったみたいだ。どんな天気だろうと関係はないけど、いい天気である事に超した事はない。
そばに立てかけてあったギターケースを肩にかける。
「もう帰るー。レッスンルーム貸してくれて、ありがとねー」
 兄ちゃんはおー、とか、うー、とか変なうなり声で返事をした。視線はもうノートの上に戻っている。ペンはいっこうに進んでいないけど、煮詰まっているようにはみえない。時間は進んでるんだ。
 そうだ、亜美。と声をかけられる。
「亜美、たいした資産はないけど――」
「兄ちゃん」
 言葉を遮って出口へ足を進める。
「今日はね、勇気をもらいに行くんだ」
 1人には結構なれたけどやっぱり、怖いものは怖い。
「別に誰でもよかったんだけど、世界でただ1人、真美からもらっちゃいけないんだ」
 でも、世界ただ一つ、譲れないものがある。

「私は、私たちに負けるわけにはいかないんだ」

 もう、雨音は聞こえない。
「そっか、がんばれよ」
 彼の姿は見てないけれども、やっぱり彼は、ノートから顔を上げてないんだろうな。
「うん、ありがと」

 ――そっかあいつらも、自分からお礼が言えるようになったんだな。
 そんな声が聞こえた気がした。


◆◆◆

 駅前の高架を行き交う人々のざわめきが耳と肌を刺激する。サラリーマン、カップル、大学生のサークルっぽい集団、買い物帰りのような女の子達。流れる雑多な音と光と匂いが渦となってまた別の渦を飲み込み、際限なく大きくなって私を飲み込む。
「――うん」
 ペデストリアンデッキの端、コスモスが咲く花壇の前に場所を定め、ギターケースを肩からおろしてギターを取り出す。鮮やかなレモンイエローのアコギだ。
 野暮ったい木目調で可愛くなかったので、真美のバイクを塗ったスプレーのあまりをもらって塗りつぶした。と、購入するときに相談した知り合いのギタリストに報告したら彼は卒倒しそうになった。確かに音は変わってしまったような気はするが、世界で一本の自分だけのギターとして愛着度合いは増したのだからよいではないか。といったら、そう言う問題じゃないと怒鳴られた。確か、マリリンとかマーライオンとかそんな感じの会社で、よく分からない型番だった気がする
 ストラップを肩にかけ、少し考えてから、ギターケースは開いて目の前に寝かせておく事にする。
 冷えた手をこすり合わせてから、適当にコードを流す。うん、若干、温度差で音がおかしいけど、まぁそれは愛嬌だ。
「あっうん。うっんっんっん」
 すーーっと、息を吸ってから、はーーっと息を吐く。
 場所、都内では中規模の駅の駅前。
 時間、晩ご飯をとっくの昔に食べ終えたくらい。
 気温、ちょっと冷えるが、ジャケット一枚で十分耐えられる。
 持ち物、ギターケース一本。
「うんうん」
 これ以上なく路上ライブっぽいじゃないか。
 さて、さて、どうしようか。
 決まってる。やる事は一つだ。ギターをかき鳴らし、歌を歌う。
 それだけ。
 仕上げにわざわざレッスンルームまで使ったんだ。
 大丈夫。
 完璧だ。

 ――だけど。
 だけど、だけど、あぁ、寒い。両足が震える。
 怖い、怖い。誰も私に振り向いてくれなかったらって。そう想像すると今にもしゃがみ込んでしまいそうだ。
 私はこんなところでたった独りで何をしているんだろう。馬鹿みたいだ。自分のやっている事は、分かってはいたけど、本当に馬鹿なんじゃないだろうか。
 こんなところで人前で弾いた事もないギターを背負って、ぼーっと突っ立ている。いや、両足が震えすぎてそれすら怪しい。
 呼吸もなんか浅く速くなってきた。これは知っている。ライブ直前に良くなる感じだ。
 ギターの重量で肩が痺れる。
 あぁ、あぁ、本当なら今頃、暖かい家でお菓子を食べながらマンガを読んでだらだらしているはずだ。あぁ、きっとそれはどれだけ楽しいのだろう。
 ほら、道歩く人たちは誰1人こちらを見ない。
 こんなライブは嫌だ。誰か、誰かがこう声をかけてくれればいいんだ。ほら、どんな歌でも私は楽しむよって、だから歌いないよって。そしたら、私も、じゃあ、仕方ないなぁって歌い出せる。ねぇ、誰か、誰か誰か誰か。

 ――誰か?

 ――誰?

 ――…………真美?

「駄目だ」
 無理矢理に歯を食いしばり、根性で唇の片方をつり上げる。
「それは、それだけは、駄目なんだ」
 堂々と胸を張り、視線をまっすぐ、観客席へ向ける。

 ――……もう、子供じゃないんだから、そんなことしないよ。
 ぱしんっと胸の前で両手の手のひらを打ち合わせる。

 ――つーか、なんで私がこんなこと亜美に言わなきゃいけないのさ。
 胸一杯に空気を貯める。

 ――そうかなー、でもそのわりに最近は亜美の方が――
 ギターを抱え、空の星めがけて右手を伸ばす。

 私は、私たちに負けるわけにはいかないんだ。

「んじゃあ、いっくよー!」
 声を張り上げ、右手を振り下ろす! 
 最初っからトップギアだ。こういうのはまずつかみ。つまらなくていい。下らなくていい。下手くそでいい。まずこちらへ相手の意識を向かせる。
 道行く人たちの怪訝な顔がこちらを向く。
 あぁ、最近はこんな顔は全然みてなかったな。デビューしたての頃、全然知名度なんかなくてイベントの前座に入ったとき、お客さんがこんな顔をしていた。前座なんてもう何年勤めてないだろうか。素晴らしいモノだ、って保証がない技に対して観客がみんなで腕組み牽制し合いながら、こちらを値踏みしている目つき。
 でも、このつまらなそうな顔を楽しそうに、楽しそうな顔はもっと楽しそうな顔に変える。それが、私たちの得意技だ。
 全員じゃなくていい、ほんの数人を、あぁ聞いてやろうかなって気にさせて私の前に止めさせる。そのために、最初からとばしていく、耳障りの言いキャッチーな音で捕まえる。ほら、1人、2人、……。
 そしたら、じっくり人を集めながらかつ、少しずつ盛り上げていく。
 いつものライブと同じだ。お客さんを盛り上げて、だんだんと、周りを気にせずに盛り上がっても良いんだって、リミッターを外していく。いつもと違うのは、この人達は歌を聴くためにここに来た訳じゃないからそれがちょっと外れ辛いって事。
 でも、ほら。
 ――おい、あれ、双海亜美じゃね?
 ――えーうっそ、ありえないでしょー。
 ――いやでも、ほら、あれさ。
 もちろん、これだって私の力。これが私の力。私は、アイドルなんだから、当然だ。
 小さなざわめきが大きなざわめきへ。大きなざわめきが小さな興奮へ。小さな興奮は大きな興奮へ。
 ここからはもうやりたい放題だ。私が好きに歌えばお客さんも好きに盛り上がってくれる。身体の奥の方が轟々と燃えさかり、熱くて熱くてたまらない。
 音と光の渦がほどけ、整列して私に流れてくる。私はそれを好きなように並び替えてあたりにぶちまける。その音と光が観客の上で跳ねて回ってまた広がる。広がったそれはもうひとつ外側でより大きな渦となって観客を包み、また私へ流れてくる。音に色がつき、光の肌触りが気持ちいい。
 あぁ、もうコードもよく分からなくなってきたけど、関係ない。音楽を創るのは、私。
 私とみんなは今、音楽で世界と会話している。
 このうねりは誰にも止められない――!


◆◆◆

「本当に申し訳ございません!」
 兄ちゃんが勢いよく自分よりも二回りは年上のお巡りさんに頭を下げる。
「まぁ、初犯だし、悪気もないようだから、とりあえず今回は注意だけにするけどね」
「はい、はい」
「有名人なんだから。今回は結構早めに解散させたから良いものの、もう少ししたら酷い事になってたよ。きっと。あんな人通りの多いところで」
「はい」
「えーっと、あなた、プロデューサだっけ? 親御さんに信頼されて身元引受人みたいな感じなんでしょ? あんただって捕まってたかもしれないんだよ?」
「はい、はい、まったくその通りです……」
 兄ちゃんはそのまま頭を上げないで謝り続ける。お巡りさんも慣れたモノのようで、つらつらと注意をする。
 場所、都内では中規模の駅の近くの交番。
 時間、よい子はとっくの昔に寝てる時間。
 気温、急に冷えてきて、ジャケット一枚では流石に寒い。
 持ち物、ギターケース一本。
 あの後、笛を吹きながらお巡りさんがやってくると、あっさりとお客さんはいなくなった。ちょっと薄情じゃないかと思った。
 そのまま交番に連れて行かれ、条例と道交法と許可がどうのこうのと説明されみっちり怒られた。住所職業その他を聞かれたのでアイドルだと答えたら、肩眉を上げたお巡りさんが、あぁ、と何かを納得したようだ。
 その後、親の連絡先を聞かれたが、両親は大変忙しい、事務所との契約上の責任者はプロデューサである、等と適当な言い訳をして兄ちゃんに連絡を取ってもらった。
 兄ちゃんにとっては寝耳に水だっただろう。こんな夜中に警察から、しかももう自分の担当でもないアイドルを保護しているのだと電話が来たのだから。でも、直前まで会っていた事に引け目を感じたのか、すぐに交番へ飛び込んできた。

「はい、では失礼します、ほら、お前も謝れ」
お巡りさんの説教がようやく終わった。まったく小言が好きな人だ。私は口をとがらせて謝る。
「スイマセンデシター」
「お前なぁ」
「あぁ、いいよいいよ。お嬢ちゃんはさっきまで十分反省してたから」
 お巡りさんが軽く手を振ると、お兄ちゃんは眉根を寄せてこちらを見る。私は胸を張って首を縦に振る。すると兄ちゃんはため息をついてもう一度お巡りさんに頭を下げた。

 兄ちゃんと肩を並べて近くの有料駐車場までゆっくりと歩く。あんなに賑わっている駅前も一本裏に回ってしまえばこんなに静かだ。さっきまで熱かった耳にはこの静かさが心地良い。交番が見えなくなり、横断歩道の赤信号で止まったとき、兄ちゃんがためらいがちに口を開いた。
「亜美」
「ん?」
「聞かない方が、いいのかな?」
「そうだね、つーか、いってもわかんないだろうし」
「力にはなれる……かどうかは分からないけど、その、なんだ、聞くくらいならできるぞ」
「あはは、兄ちゃん言ってる事が矛盾してるよー」
「お前なぁ」
「それに」
 勢いをつけて、肩のギターケースを背負い直す。
「それに、もう、終わった話だから」
 はーっと兄ちゃんはまたため息をつくと両手を挙げた。
「もういい、もういいさ。俺はお前等の親でもプロデューサでもないんだから」
「えー、つめたーい」
「……はぁ」
「あは、あはは!」
 私はなんか楽しくなって青になった横断歩道へくるりと回りながら飛び出す。
「ガキじゃないんだから、やめろって……」
「あははは!」
 私は振り向いて対岸で兄ちゃんを待つ。兄ちゃんは小走りで追いつくと、またため息をついた。と、視線を私より向こう側へやった。
「……でもまぁ、俺にはよくても、話さなきゃいけない奴がいるだろう?」
 振り向いて視線を追う。ぼうっと光る自動販売機、そのそばに真美が立っていた。じーっと私の事を見つめている。
「……兄ちゃん、これ」
「ん?」
「駅のコインロッカー、荷物おいてあるから、取ってきて」
「……はいはい」
 兄ちゃんは何度目かのため息をついて私から鍵を受け取ると、代わりに私に車の鍵を握らせた。

 兄ちゃんが駅の方へ歩いていく音が聞こえなくなると、私は真美へ声をかけた。
「やっほ」
 真美はぶすっとした視線を私から外さない。
「心配したよ」
「いやーごめんごめん」
「本当に心配したんだから」
「だからごめんって」
「馬鹿じゃないの?」
 真美がホットコーヒーを投げてよこす。あぁそっか、もうあったかい、の季節なのか。
「まぁ馬鹿だなーとは思うけどさ、それ、私たちの得意技じゃん?」
 ぷしっとプルタブを開けて、コーヒーを一口飲む。わざとらしい苦みが舌の上に広がる。ほうっと息をつく。あ、少しだけ息が白くなった。
「でさ」
 熱を持った缶を強く握る。
「私がさ、今日、一緒にやろう、っていたら、一緒にやってくれた?」
 真美は、眉根を寄せて、相変わらずぶすっとした視線を送ってくる。
「あは、ほら、寒いから歩こうよ!」
 私は真美の背中を軽く叩き、肩を並べて歩き出した。

「あのさ、いきなりで悪いけど、話したい事があるんだ」
 2人で並びながら歩道をてこてこ歩いていく。返事のない真美をちらりと横目で見てから、軽く話しかける。もう、話さない理由もない。
「私たちの――これからの事」
 真美は視線を真下を少し下げてぼそっと呟いた。
「……今日の事と、関係ないじゃん」
「うん、そだね。関係ないね」
「……」
「でも、話さなきゃいけないよね。私なんかより、ずっと前から、真美は気づいてたもんね」
「より、とか、いうな」
「ごめん」
「謝るな」
「ごめん」
 空を見上げるけど、ここではたいして星は見えない。だけど、見えないけど、星は光っている。缶コーヒーを一気にぐっとあおる。
「私ね、今日あそこでさ、独りで歌って楽しかった。お客さんが私の歌に感動して、私はそれが嬉しくて、それがこう、何回も何回も繰り返して、どんどんどんどん楽しくなっていくの。それでその、あは、凄い楽しかったのにうまくいえないや」
 わかる? と問いかける。真美はしばらくうつむいていたけど、しばらくしてゆっくりと首を横に振った。そっか、と私は言ってまた空を見上げる。
「でね、ああ、私はこういう仕事が出来て幸せだなって、Aランクとかはちょっとよく分からないけどこんな風に生きていくんだって、そう思った。――独りでも」
 歩みを止めて道の脇にあったゴミ箱へ空き缶を突っ込む。
「だから」
 真美は私の三歩先で立ち止まる。背中が震えている。やっぱり視線は下を向いたままで、何かを耐えている。何かを、私にはわからない、何かを。そんな真美の背中をしっかりと見据える。
「だから、真美。私は、これからもアイドル双海亜美を続けるよ。きっともう、独りでも大丈夫だよ」

 今日は月が綺麗だ。昔の人はこの満月の夜はとても明るいと思っていたらしいけど、まったく信じられない。こんな光、何にも照らし出せない。 100均の懐中電灯の方がまだ明るいじゃないか。月は太陽の光を反射しているだけ。そう何度も何度も教育させられた人間には、月の凄さは分からない。人工灯ばかりの町で暮らしてきた私には、そう感じる。
 そして人工の光は月の明かりを覆い込み、ひくっひくっとしゃくり上げる真美を照らす。泣き声が聞こえるような気がするけど、きっと気のせいだ。だってここからは背中しか見えないんだから、彼女がどんな表情で何を思ってるかなんて、私が分かるわけがない。
「わた、わたしは、もう、わかん、うぇぇ、でも、ハッチで」
 うん。うん。
「ひぐっ、そんなこと、やっぱりってずっと、考えてて」
 うん。うん。
「亜美がぁ、ごめんって、ひぐっ、ずっと、わか、あぇ、わかってたんだけど」
 うん。うん。
 真美はずっとそのままだったけれど、遠くから電車の音が三回くらい聞こえたくらいで、ぴたりと真美の背中が止まった。両手でぐりぐりと顔をこすると、星の見えない空を見上げはぁっと息を吐いた。左手で右肘をぱしんっと叩いて、くるりとこちらを振り返る。
「亜美!」
 ――あぁそうだ、この特大の向日葵のような笑顔。私たちの、トレードマーク。
「私ね、大学にいって色々なサークルに入りたい。それで、合コンとかめちゃ行きまくって、頭の悪い彼氏を作りたい!」
「うん」
「それで、講義さぼって、彼氏なんかほっといて、バイクであっちこっちへ旅したい!」
「うん」
「旅行先でめちゃ綺麗な景色と美味しいご飯を写メって、それを仕事で忙しい亜美に送って悔しがらせてやりたい」
「うん」
「そんで、卒業する頃になって、単位が足りなくて、就活も辛くて、あぁ、アイドル続けてれば良かったなぁ、なんて、思うんだ」
「うん、そっか」
 それが、私の知らなかった、真美のやりたかった事、それが。
「それが、真美の、夢なんだ?」
 真美は真っ赤に腫らした目でこちらをじっと見つめる。迷いなく、自信を持って言い放つ。
「うん。だからもう、アイドルやめる。双海亜美はもうやめる。双海亜美はもう、亜美のモノになる」
 それは、19年間続いてきた、無理矢理続けさせてきていた、私たちに対する決別の宣言。
 
「私、亜美が思うよりずっと前から分かってたんだ。私より亜美の方がずっとずっと――アイドルなんだって」
 それは、普段の笑顔の使い方であったり、ライブの時の声の通りやダンスの切れであったり、TV番組でのトークにおけるノリの良さや機転の利きであったり。そんな事の積み重ね。周りのみんなは気づいてたのかな? そんな事さえ分からなくなるくらいもう、どうしようもなくなっていた。2人で肩を組んで歩き出した道なのに、いつの間にか腕を組んで、気がついたら手を握ってて、そしたら小指だけになって。結局、隣を見たら、もう誰もいなかった。
「別に悔しい訳じゃなかった、でも、どうやったら亜美みたいになれるのかなって考えてたけど、どうにもならなくて。それでもなんとかなるように一つ一つ仕事をこなしていったんだけど、最近はもう全然。楽しくないし、自分が何やってるか訳わかんないし。普通のアイドルならスランプだーつってプロデューサと相談してどうにかするのかもしれないけど、私には、亜美がいたから」
 そうなった時の結論なんて決まっている。つまり、こういう事だ。
「だから、そんな状態で、2人で再デビューとか、ごめん、無理。絶対無理」
 もう私たちには互いが互いをどれだけ必要としているのかさえ分からなかったんだ。だから、真美は私に、私は真美に言い出せなかった。互いに分かってるくせに、分かっていなかった。分からないフリをした。
「でも、それを他の人に言われるのだけは嫌だったし。けど、……亜美に話すわけにはいかないし」
 真美は髪の毛をぐしゃぐしゃっとかき回して早口で言った。
「それで、その、あははは、なんか、私しゃべりすぎだね。うわ、臭っ、恥ずかし!」
 私もそれにつられてなんだか急に恥ずかしくなって笑いがこみ上げてくる。
「あ、あはは……」
「はは、ははは……」
「はは」
「は……」
「……」
「……ぷっ」
「ぷふっ」
「ぷはは!」
「あははは!」
「あはははは!」
「「あはははははは!」」
 こんな夜遅くに、周りの迷惑も考えずに2人で笑い転げる。互いの肩をばしばしと叩き合いながら。もう何もかもが楽しくて、馬鹿らしくて。いったい私たちは何をしていたんだろう? 何を遠回りしてたんだろう?
「あはは、あ、亜美ったら、なんで私と話しづらくなって、その結果が、あはは、路上ライブって、あははっは、し、しかも、お巡りさんに捕まってるし! あははは!」
「そ、そんなこといって、真美だって、あはは、私より実力ない事が悔しくて、なんでバイク買うの? あはは、それで、それでもやりきれなくて、夜にこっそり兄ちゃんに相談しに行くとか、もう、なにやってんのって、あははは」
 えーなんで知ってるのー? とかいいながらずっと笑い転げる。もう笑うこと自体が楽しくて笑って、それが楽しくて笑って、もう何もかも解けていって、熱いも冷たいも解けて常温に戻っていくようで。きっと脳が変な脳内麻薬をすっごい勢いで分泌しているんだ。ここ最近、否、一生で一番笑っていると思う。

 「ごらうっせーーーぞっんだらーーー!」

 ぴたっと、私たちの笑い声が止まる。頭の上の方からものすごい大きい声でおっさんの怒鳴り声が聞こえた。ぴしゃりと閉まる窓の音。
 そして互いの目を合わせ、またくくくっと忍び笑いをする。真美の手を取ってぎゅっと握る。まっすぐ、まだ赤い真美の目を見つめる。真美の瞳に映るのは亜美で、亜美の瞳に映るその女の子は、真美だ。
 ゆっくりと、私は口を開く。
「あのね、真美、わた――」

「んぁ? お前等まだこんな所にいたのか。せっかくキー渡しといたのに」

「……」
「……」
 兄ちゃんが私のバックを手に持ってこちらへ歩いてきた。
「亜美、お前なーせめて改札内か外か言ってくれよー。俺、入場券とか久しぶりに買ったぞ」
「…………」
「…………」
 ぶつぶつといいながら近づいてくると、きょとんとした顔でこちらを見る。
「あ? 何お前ら手なんかつないでるんだ? 仲直りしたのか?」
「………………」
「………………」
「……?」
「「……………………ぷっ」」
 私たちは2人同時に吹き出した。そして同時に兄ちゃんに駆け寄る。
「兄ちゃん兄ちゃん、亜美達おなか減ったなー!」
「いまならちょー可愛いアイドルとお食事する権利をプレゼントだよ!」
 そういって兄ちゃんを後ろに向かせてその背中を押す。
「はー? お前ら、俺にこれだけ迷惑かけといてまだそんな事言うのか?」
「なにさーこんな美少女の迷惑なんて、お金払ってでも貰いたがる男の人いっぱいいるんだからねー」
「はい、これ持ってー」
「自分の荷物くらい自分で持てよ! それに、こんな時間にやってる店なんてねーよ!」
「べっつにファミレスで構わないよー」
「あ、でもでも、ラーメンとかも良いかも!」
「お! いいねいいね! 閉めラーメン!」
「閉めラーメン閉めラーメン!」
「お前らどこでそんな言葉覚えて来るんだよ……」
「いいからいいから、駅はあっちー」
「閉めラーメンはあっちー」
「あのなぁ、こんな時間に未成年つれて歩いてたらまた……」
「また怒られるね」
「学習能力のないプロデューサだね」
「だからいつまでもこんな安っぽいスーツなんだよ」
「……おまえらなー!」
「うわ、怒ったー!」
「あはは、横暴プロデューサがアイドルに暴力を振るうよー!」
「助けてー、あははは」


 ドラマをの趣味が違う。
 互いの鞄の中身なんて知らない。
 朝、いってきますを一緒に言わない。
 普通の姉妹なら当たり前で、もしかしたら普通の双子にとっても当たり前の事だけど、私たちには当たり前でなかったことが事が少しずつ増えてきた。
 それは、変化? 成長? 喪失?
 そんなの分からない。
 分かる訳がない。
 けどさ、それって――

「なんか、ちょー楽しいね!」





◆◆◆
◆◆◆


「いってきます」


「いってらっしゃい」