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 あいつは何も分かっていない、と水瀬伊織は思った。

 がさつで、テキトーで、息も臭いし、身だしなみもテキトー。言う事もテキトー。もちろん考えている事だってテキトーだ。そんな奴にプロデュースされる自分の身にもなって欲しい。
 確かに先に悪態をついたのは私の方かもしれない。でもそんな事はいつもの話ではないか。それこそ奴がテキトーな事ばかり抜かすのだから自分はそれ相応の言葉を投げつけなければならない。
 だいたい、今まではそれを許してきたではないか。私が何を言っても、どんな我が侭を言っても、あのテキトーな感じで受け止めてくれてたではないか。だから私も信頼して――認めたくはないが、あれはある種の信頼だったのだろうと解釈できない事はない、と水瀬伊織は眉間の皺を増やした――暴言を躊躇無く吐いていたのだ。これが2人の形ではなかったか。

 それがなんだ今日は。
 ちょっと気分が良かった今日の朝。事務所に来てみれば、他のアイドル、四条貴音とだらだらとお喋りをしている。それがどうにも水瀬伊織にとってなんだか面白くなかった。その理由は分からない。けれどたぶんきっと、この日、なんだか気分の良かったこの日、朝一番最初に自分に話しかけてくるのは奴に違いないと、そう思っていた自分の確信を崩されたからだろう。水瀬伊織は、自分の思うとおりに事が進まないのが嫌いなのだ。だから水瀬伊織は珍しくも自分の方から声をかけたのだ。おはよう、と。
 なんと光栄な事か。なんと名誉な事か!

 しかし、だがしかし。

 彼からの返事はただ一言。
 あぁ、伊織か。

 これだけ。
 たったこれだけ。
 当然、水瀬伊織は非難の声を上げた。相当辛辣な言葉で。
 それはいつもの事だ。いつものように受け止めてくれる事を期待しての言葉だ。

 しかし、だがしかし。

 彼からの返事はこうだ。
 わかったわかった。今は貴音と話しているんだ。ちょっとあっちに行っててくれ。

 これだ。
 こんなんだ。
 水瀬伊織は怒った。それはもう怒った。思う限りの罵詈雑言の言葉を投げつけ、烈火のごとく舌が回り、身体全体で言を発した。普段は美しい彼女の高音が、品の悪い響きでもって朝から事務所内に響き渡る。
 あまりに大きいものだから、他のアイドル達もどうしたどうしたと顔を覗かせる。……中には逆に隠れてしまった者もいたが。

 それはよろしくないと思ったのか、ここでようやく彼が声をあげた。
 伊織、やめよう。そういう事を言うのは、俺は嫌いだ。

 嫌いだ、と言われた。

 何を言われたか、水瀬伊織には最初は分からなかった。なにせ、言い返される事なんて未だかつてただの一度もなかったのだから。

 嫌いだ。

 その意味を理解した瞬間、水瀬伊織の瞳から大きな大きな涙がぽろぽろぽろぽろと零れてきた。
 彼は驚いた。
 周りのアイドルも驚いた。
 まさかあの水瀬伊織が!
 だけどやっぱり水瀬伊織はたいしたものだ。泣き声をあげず、そのまま歯を食いしばった。だけど、どうしても肺がひくひくとしゃくり上げてしまう。
 そこか冷静な彼女が頭の中にいてこう言った。これはちょっと恥ずかしいから場所を変えましょうか。
 そして水瀬伊織はそこから優雅に立ち去った。
 まぁ周りから見れば、泣きながら逃げ出した、という形なのだけど。


 つまり、女子トイレの個室で彼女が目元を真っ赤にしながら鼻をすすっているのは、そう言う理由だ。

 なんで急に泣き出してしまったのかは自分でもわからない。
 ある種の信頼を裏切られてしまったから、なのかもしれない。
 水瀬伊織がどんなに辛く当たっても、彼が笑って受け止めてくれるという。
 それが悔しくて悔しくて、涙となって溢れてきてしまったのだ。水瀬伊織はそう思う事にした。認めたくないけど、やはり私は彼を信頼しているのだろうと。

 つまりそれは、水瀬伊織が彼に、親子のように、兄妹のように、恋人のように甘えているという事なのだけど、水瀬伊織はそこまで頭が回らなかった。
 もし回ったとしても、水瀬伊織はそれは認めなかった事だろう。


 こんこん、というノックの音。
 何故か、それだけで水瀬伊織はドア一枚向こうに誰が居るのか分かってしまった。
「何女子トイレ入ってんのよ、変態」
「ごめん」
「ごめんで許されるなら警察はいらないわよ」
「ごめん。それと、ごめん。俺が悪かった」
 水瀬伊織はちーんと鼻をかんだ。抗議の意志だ。

「あんたは何も分かってない」
「そうかも、しれない」
「かもじゃない。かもじゃないわよ、このド変態」
「どうすれば許してくれる?」
「自分で考えなさいよ、それくらい」

 しばらく考えて、彼は口を開いた。
 それを聞いた水瀬伊織は個室から飛び出てきて、彼の脹ら脛に蹴りを食らわした後、その胸に飛び込み、彼のスーツで涙と鼻水を拭いた。

 彼がどんな言葉を口にしようと、結局彼女はそうしただろう。
 なぜなら、彼女は彼を最初から許していたし、そもそも怒っていなかった。
 そして何より、彼の事を信頼しているのだ。