003



「逢い引き、なのでしょうか」
 対面に座る四条貴音が、ハーブティーを飲みながらそう呟いた。霧雨のような昼下がりの日差しがカフェ――珍しくも彼女が選んできた店だ――の窓際の席に落ちる。それは貴音の触れれば溶けて消えてしまいそうな銀髪に絡み、拡散して空間にそっと輝く。これは決して俺の錯覚なのではなく、実際にこの場を支配しているのだ。店内にいる店員や客が、常に彼女の存在を意識しているのがわかる。これが持って生まれてきたアイドル性、というものだろうか。
 しかし、彼女はそんな事には気づきもせず――いや、気づいていて、それでも気にしない胆力の持ち主なのか――また悠然と小生意気に小洒落たカップをそのガラス細工のような口元へと持っていく。
「やはり、逢い引きなのでしょうか」
「何がだよ」
 音を立てながらエスプレッソをすする。高そうな豆っぽいが、事務所で飲んでる業務用のインスタントコーヒーと何が違うのか無教養の俺にはさっぱり分からない。これ一杯で札が一枚飛んでいくのだから、せっかくなら何か得るものが欲しい。違いは何なのか。
「一番は香り、ですね」
 勿論それだけではありませんが、と彼女が口元に手をあててふふっと上品に笑った。
「……俺の心を読むな」
「心ではありません。顔を読みました」
「同じ事だ、それは」
「こうして向き合って座っているのです。あなた様の顔以外、何を見つめろと?」
「物好きだな、お前は」
「私もそう思います」
 貴音は肩をふるわせて笑った。しかしそこにいやみな所作はなく、そんな仕草でも彼女は相手の心を掴んでしまうのかと、俺は敵ながら呆れるように感心してしまった。
「で、なにがあいびきだって? 今日の昼飯がハンバーグだったのか?」
 俺の言葉に、貴音が笑う事を止め、きょとんとした顔でこちらを見る。
「……なんでもない」
「はんばーぐ?」
「なんでもないっていってるだろ忘れろ。忘れて下さい」
 はぁ、と彼女は納得のいかない様子で首を縦に振った。
「逢い引きとは、もちろん私たちの関係の事です」
「どうしてそうなる」
 片手で痛む頭を抑えそうになる。俺と――俺達と彼女はライバルだ。誘われればこうしてお茶をする程度には気を許してはいるが。
「違うのですか?」
「逢い引きの意味、知ってるのか?」
 貴音は顎に人差し指を添えて、小首を傾げた。普通の娘がすればわざとらしい仕草が、彼女によれば浮世離れした可憐なものとなるのだから、ずるい。
「男女での密会、でしょうか」
「特別な関係の、な」
「特別な関係とは?」
「それは、その」
 俺はなんだか年甲斐もなく気恥ずかしくなって、視線を窓の外へ移した。手を繋いだカップ
ルが二組、俺の目の前を通っていった。
「あ、愛し合ってる男と女、とかだろ」
 ぱちん、と軽い音がした。貴音の方に顔を戻すと、彼女が胸の前で手を合わせていた。
「それなら問題はありません。私はあなた様の事が好きです。そして、あなた様も私の事が好きなのでしょう?」
 俺は完璧に痛くなった頭を両手で押さえた。彼女に何をどういう風に伝えればいいのかさっぱり分からない。
「違う。いや、嫌いじゃないし、どちらかといえば君の事は好きなのかもしれないけど、でもそういう意味ではなくて……」
 なるほど、と彼女は腕を組んだ。強調されたその豊かな胸元を意識しないように俺はより強く頭を抑えた。
「逢い引きではない、と」
「あぁ」
「それでは」
 彼女が腕を組み替えた。
「浮気」
 俺は頭をテーブルの上へ叩きつけた。カップとソーサーが壊れそうな細い音をたてた。貴音の小さく驚いた声が聞こえた。でも驚いたのは俺の方だ。
「浮気の意味は?」
「既に特別な関係にある異性がいるというのに、別の異性と会う事、でしょうか」
「当たりだ。つまりハズレだ」
「そうでしょうか」
 俺の所為でこぼれてしまったお茶を、彼女が紙ナプキンで丁寧に拭いた。
「あなた様は萩原雪歩という特別な関係にある女性がいるのに、こうやって私と逢瀬を続けています」
「俺と雪歩はアイドルとプロデューサーの関係だ」
「それは特別な関係ではないのですか?」
 俺は言葉に詰まって何も言えなくなってしまった。
「相手を愛し、愛される関係なのではありませんか?」
 そうかもしれない。そうでないかもしれない。それに対する答えを俺は持ち合わせていない。きっと、これから一生かけて探し続けて、それでも最後まで見つからないものなんだと思う。
「とにかく、浮気は止めてくれ」
 今頃、スタジオで汗だくになりながら先生とマンツーマンでレッスンを受けているであろう雪歩の姿を思い浮かべる。すごく申し訳ない気持ちになってきた。もちろん雪歩には、貴音とお茶を飲んでくる、という事は伝えてある。彼女は満面の笑みで、いってらっしゃい、といった後、私も行きたかったなぁ、と小さく零した。
「それでは、私とあなた様との関係はなんなのでしょう」
「弱小プロダクションのさえないプロデューサーと、そのライバル事務所の人気アイドル、だろ」
 俺は投げやりな言葉を返した。しかし彼女は得心したかのように深く頷いた。
「やはりあなた様は素晴らしいです。なるほど、確かにその通りだと思います」
 貴音は胸元に手をあてて、そっと瞳を閉じた。
「あなた様と私の関係はそのまま、あなた様自身と、私、四条貴音、という関係なのでしょう。決して、一般化されるような関係ではありません」
「褒めてるのか?」
「少なくとも、私にとってはそれがとても嬉しいのです」
 貴音は、年相応の少女らしい笑みを浮かべた。
「ローズヒップと、エスプレッソのような関係です」
 俺は何も言えなかった。彼女の言葉を否定出来なかったのか。もしくは、否定したくなかったのか。なぜならきっと俺も彼女と同じで――。
 と、その時自分の携帯が震えるのを感じて、ポケットから取り出し中を覗く。
「……雪歩からメールだ。今からこっちに来るって」
「まぁ、それは素晴らしい」
 彼女は嬉しそうに両手を合わせた。雪歩からのメールは、いつもより絵文字が多くて随分と機嫌が良いようだった。少しだけ、嫉妬心のようなものが沸いてきた自分に気がついて、それを誤魔化すようにコーヒーを流し込んだ。
 俺が高いコーヒーの楽しみ方が分からないように、貴音にだって分からない事がたくさんある。もちろん雪歩にも。それを互いに補完しあえるような関係であれば、この‘密会’もそれほど悪い事ではないんだろう。
 ともあれ、今日の午後は楽しい時間になりそうだ。
「……これは、修羅場というものになるんでしょうか」
 ちがうわ、という俺の心の声は、どうやらまた顔に出ていたようで、貴音は本当に楽しそうに笑い声を上げた。