005



 その日、私が事務所のドアを開けて最初に見た光景をどう説明したものか。
 お預けを食らった犬がしゅんと頭を垂れていた、とでも言えばいいだろうか。うん、そう。確かにそれだ。私が飼っているのはミニチュアダックスフンドなのだけれども、イメージとしてはあの子よりもずっと大柄な、そう、ゴールデンレトリバーのようなもこもこした感じ。耳が垂れてさ。かわいい。
 普通ならばそんなものを見たら思わず笑みが浮かぶのだろうけど、どうにも私はそういうのが苦手だ。
 仏頂面。
 無愛想。
 鉄面皮。
 それは全部ひっくるめて自分だから、嫌になることなんてない。けれど、ま、時々はどうにかならないものかな、とか考えてしまう。本当に時々だけど。
「どうかしたの、かな」
 例えばこうやってなにやら落ち込んでいる同僚に話しかけるときとかね。
「あ、り、凜ちゃん」
 私が来たことさえ気づいていなかったらしいゴールデンレトリバー――三村かな子がうわずった返事をする。
「おはよう。ごめんね、私ぼーっとしてて。すぐにお茶入れるよ」
「おはよう。いいよ、別に。自分でやる」
 上着を脱ぎながらそう返事したのだけど、かなはそれに構わず、ぱたぱたと早足で給湯室へと消えていった。
 年上に対してこういう事は大変失礼だとは思うのだけど。
 ――うん、やっぱり犬だ。

@ @ @

 ソファで向かい合わせに座り、二人でお茶をすする。かなの入れたお茶は、かなに似てどこか柔らかい味がする。安心。落ち着ける。
 私みたいなカチンコチンな人間がいれたら、きっと固く尖って飲む人の舌を突き刺してしまうだろう。
 けれど、今日のお茶はどこかなにか違和感がある。
 かなは湯飲みを持ったまま一口も飲まずにじっと俯いている。いつもならゆっくりとした口調でとりとめのないことを楽しそうに話しかけてくるのに。そして私はいつもそれに、うん、そう、へぇ、だなんて無愛想な返事を返すのだ。だからこうやって彼女が黙ってしまうと何を話題にすればいいのかわからなくなる。何か気の利いた言葉で彼女に『美味しいよ』と伝えようと思ったのだけど、それが思い浮かばない。代わりに、もう一口すする。
「――お茶、飲まないの?」
「え、あ、うん」
 かなは湯飲みを持ち上げて、舐めるようにして少しだけ口につけて、また下におろした。
 結局、こんなきつい言い方しかできないのか、私は。
 肩を落とし、目線を落とし、犬のように耳がついていたらきっと耳も落としている。そんな彼女を見つめる。いったい何があったというのだろうか。もし大変な悩みだったら、私なんかでは力にはなれないかもしれない。でも、話くらいは聞いてあげたい。だって友達ってそういうものでしょ?
 とりあえず話のとっかかりを見つけようと、部屋の中を見渡す。
「あれ?」
 あぁ。違和感の正体にようやく気づいた。
「ねぇ、かな。今日はお茶菓子はないの?」
 彼女はお菓子を作るのが趣味だ。毎日何かしらのお菓子を作ってきては学校や事務所で振る舞っている。その味は絶品で、事務所内でもとにかく評判だ。かくいう私も、彼女が焼く紅茶のビスコッティが大好きで、その時はもう事務所のドアを開ける前から臭いでわかってしまうくらいだ。もちろん涎も出てくる。まさしくパブロフの犬という奴だ。
 お菓子のいい臭いがすれば彼女がいるとわかるし、しなければ残念だな、なんて思ってしまう。だから、今日は甘いにおいが全くしないのに彼女がいることに、少し違和感を感じてしまったんだ。
「珍しいね。寝坊でもした?」
 私としては軽い話題作りのつもりで話を振ったのだけど、彼女にとってはそれは軽くなかったらしい。びくんっと肩をふるわせて、いっそう目線を下げてしまった。
「なに、どうしたの?」
「ね、寝坊はしてないんだけど」
「ふぅん」
 お茶をもう一口飲む。なんでそんなに慌てているのだろうか。
「じゃあ何したの?」
「ご、ごめんねっ。作ってこなくて。楽しみにしてくれてたんだよね」
「まぁ、楽しみにはしてたけど。そんな謝る事じゃないよ」
 というか、いつも食べさせて貰ってるのはこちらなのだから、かなが謝るのはあべこべじゃないか。
「なんか落ち込んでるみたいだからさ。なにかあったの?」
「えっと、えっと」
 彼女がもじもじと指を合わせる。
「その、誰にも、言わないでくれる?」
「誰にも?」
「うん、凜ちゃんだけに話すから」
 私にだけ――。
 なんだか無性に照れくさくなって、おもわずそっぽを向いてしまう。そんな事をしなくたって私の無愛想な頬は赤くなったりしやしないのに。
「ふぅん。ま、いいんじゃない」
 なにがいいんじゃない、だ。何様だ私は。
「うん、ありがと」
 けれどそれを察してか、彼女はこくんと頷いた。
「あの、あのね」
 ゆっくりと、顔を持ち上げて、上目遣いで私の方を下からのぞき込む。
「……ちゃって」
「えっ?」
「……増えちゃって」
「何が?」
 がたんっと音を立ててかなが立ち上がった。私は思わず後ろにのけぞる。
「た、体重がっ! 増えちゃって!」

@ @ @

「えぇっと、つまり、昨日の夜、お風呂上がりに久しぶりに体重計に乗ったら目を疑うような数値が出たと」
「……うん」
「それは、なんというか、ご愁傷様」
 アイドルとして、女の子として、それは大変な一大事で。だから、慰めるのがとても難しい。私はどちらかというと痩せやすいタイプなのだけど、それでも季節によっては重くなってしまう。辛さは、とてもとてもよくわかる。
「そういえば、最近おなかが柔らかくなったなったなぁ、なんて思ったりはしてたんだけど。まさか、こんなに増えてるとは思わなくて」
 そんなに増えたのか。数字は聞かないでおこう。何か怖いから。
「そしたらね、なんだか甘いものを作る気が失せちゃって。作るのは楽しいんだけど、それを自分が食べずに周りの人たちだけが食べている光景を想像したら、なんだかもう、辛くなっちゃって……」
 あー、うん。それは確かに辛いかもしれない。いや、絶対に辛い。
 俯く彼女からは全く覇気が感じられない。お菓子を食べられないことがそんなにショックなのだろうか。なんだか顔をも青ざめて――。青ざめて?
「かな、お昼ご飯は?」
「……食べてない」
「朝は?」
 無言で首を振る。
「じゃあ何も食べてないの?」
 彼女が抱えている湯飲みを見る。さっきから全く減っていない。
「ちょっと、嘘でしょ。もしかして水も?」
 少しだけ、首をこくんと動かした。
「かな!」
 私は勢いよく立ち上がった。
「なにやってるのあなた! そんな風に身体を傷つけたって何も解決しない!」
 彼女の身体がびくんと震えた。
 すごく純粋な所は彼女の素敵な長所ではあるけれど、それはやり過ぎだ。流石に他のことが見えてなさ過ぎる。
「で、でも」
「でもじゃない。とりあえずお茶を飲んで」
「あのね」
「あのねもない」
「……凜ちゃん、怒ってる?」
「怒ってるよ。当然でしょ」
 私は両手を組んで彼女を見下ろす。そんな私と、手に持ってる湯飲みを何度か交互に見てから、彼女は恐る恐る湯飲みに口をつけた。そろりそろりと湯飲みを傾け、そしてごくり、ごくりとのどが動く。逆さになるまで傾け、それから下にゆっくりと降ろす。
 目をつぶり、ふぅっと大きな息をつく。
「美味しい」
 当たり前だ。彼女がいれたお茶は美味しい。
「そんな無茶な方法で体重を減らしたって、意味ない。本当に体重を戻したいなら、食事を減らすんじゃなくて、運動量を増やすの」
「運動は、苦手だなぁ」
「……私もつきあってあげるから」
「ほ、本当に?」
 私は腕を組んだままこくりと頷いた。そして、かのじょから目をそらして、明後日の方向を見る。
「……それに――」
「うん?」
 頬が、少しだけ熱くなる。なんだ、これは。なんなんだこれは。いつも仏頂面で、無愛想で、鉄面皮な私には、感じたことのない感覚だった。
「――かなはそのくらいの方が可愛いよ」
 そこまで言って、私はすとんとソファにまた腰を下ろした。気恥ずかしさを隠すために。湯飲みに手を伸ばそうとして――。
「凜ちゃん!」
「ってきゃあっ! 何、急に抱きつかないで! かなってば!」
「ありがとね凜ちゃんっ! 私、幸せだよっ、凜ちゃんみたいな友達がいて!」
 彼女のふかふかした身体が私を包む。身長は私の方が大きいはずなのに、何故か彼女にくるまれるような感覚に陥る。とても、安心する感触だった。
「凜ちゃん! 凜ちゃん!」
「ちょっとおちついてよかな! ……えっ、ていうか、もしかして、太ったって、むn――」
「凜ちゃーん!」

@ @ @

 次の日、かなは山ほど紅茶のビスコッティを焼いてきた。
 そして、やっぱり事務所の外からでもそれがわかってしまった私は。
「作りすぎよ」
 と独り言を呟いてから、ドアを開けたのだった。