習作003





「せんせい!」
 私はカルテから顔を上げ、丸椅子に座る患者に目をやり、ぶらぶらと動かす足を、こらっと止めさせる。その子はつまらなさそうに頬を膨らませ、もう一度私を呼ぶ。

「せんせい!」
「なんだい?」
 その子は大きくあはは、と笑ってからねぇねぇせんせい、と三度私を呼びかける。
 遠い昔は私のような職業が確固たる地位が補償されていた時代もあったという。煩雑として統制のとれていない汚物のような、人類の黎明期、という奴だ。
 そんな化石のようなルーツでもってこの子は「せんせい」と私を呼ぶ。
 そして事実、建前、形式だけだとしても尊敬の言葉でこの子が私を「せんせい」と呼ぶ事にある種の快感、征服欲を満たされている事を、私は認めなければならない。

「でさでさ、ぼくはなにかわるいところがあるの? そりゃあたまはわるいけど」
 それでもクラスでいちばんわるいってわけじゃないんだよ、ねぇララ? とその子は笑いながら手を振り回す。後ろに控えている育児用アンドロイドは目を伏せて応えない。
 すると大きく口を開け、重ねて笑い、リノリウムの床を素足でぺちぺちと叩く。

「あぁ、病気だ」

「びょーき?」

 この子はきっと病気という言葉を知らない。
 言うまでもないことだが、現代では病気なんてものは存在しない。生活が安定しその自分の資産を委譲する子孫が欲しいと思った時、彼らは人工子宮プラントを持つ業者へ自らの遺伝子を提供し、資産を共有する個体を作る。性差というものがファッション的な意味を大半がしめる現代、『両親』という言葉はすでに死語となっている。
 この子だって先天性の病は生まれる前からより分けられていて、半世紀に及ぶ「世界の大消毒」から逃れたわずかな病原菌も体内の有機デバイスによって半日も経たずに無害化され尿と一緒に体外へ排出される。ついでにホルモンのバランスを整えて精神の安定をもたらしてくれる。

 だからこそ、投資主、つまり生物学上の親は育児用アンドロイドからの報告を聞いてどう思うだろうか。

「キボウ病」

「きぼー?」

「キボウ病」

 現在、病気と言えばこれ以外にはほとんど存在しない。
 ふーん、と興味なさそうに相槌を打つと、後ろに佇むアンドロイドへ、知ってる? と問いかける。右に30°、左に30°、右に30°きっちり首を振って、彼女は鈴が転がるような、しかしとうの昔に聞き飽きた汎用音声で、はい、と応えた。

「人間って言うのはね」
 放っておくとそのまま説明されそうなので、制して僕が先に声を上げる。
「人間って言うのはね、とても疲れたら、あぁもうだめだってなったら、もう諦めようってそう考えるモノなんだ。それは別に悪い事じゃない。駄目なときは諦めずとも1回立ち止まって別の方法を探すのは大切だ。それが息休めにもなるしね」
 でもね。
「近年はそれを拒否する人たちが現れ始めたんだ。君のようにね」

 首をかしげるその子には理解できない。理解できないからこその希望病。

「いつまでもいつまでも、自らの、世界の可能性を否定しない。信じ続けてしまう。夢を見続けてしまう」
「そんなのあたりまえじゃない」
「当たり前じゃないよ」
 例えば私みたいな普通の人間はねと爪を噛む。

「朝起きてコーヒーが飲みたいと思った時、だけどその豆が無かった時。僕なら諦めて手元にある中国茶を飲む」
「ぼくはちがうな」
 被せるようにその子が声を上げて手を挙げる。

 僕なら、と上げた手の平を開閉させる。
「ぼくなら、さがしにいくよ」
「こんな朝から店は開いていない」
「やってるおみせをさがしにいく」
「開いていても、売っていなかったら?」
「うっているおみせをみつけにいく」
「そのうち雨が降ってきた」
「あめはすきだよ」
「雷まで」
「もっとすきだ」
「夜になってしまった」
「おつきさまってキレイだよね」
「月もでてない」
「おほしさまはみててあきない」
「歩きすぎて、脚が痛くなってきた」
「じゃあちょっとやすもう。せっかくおほしさまもいるのだし。やすみおわったら、またあるきだそう」

 その子の無防備に高く上げられたその手を取って下に降ろす。とても柔らかくて暖かい感触をうけたのは、その子の手がそうだった所為なのか、もしくは私の手が冷たくて硬かった所為なのか。

「ぼくはわがままなのかな?」
「違う。病気なんだ」
「ぼくがびょうきなんじゃない。みんながびょうきなんだ」
 その子はつかんだ僕の手を、逆に両手で包んで、口元に寄せた。

「みんなが、ゼツボウ病なんだよ」

 生理的な嫌悪感と、得体の知れない多幸感。抽象的な物ではなくて、肉体的な感触をもったそれが私の手を伝わり、脊髄を走り、脳を掻き回すのを感じた。とてもとても怖くなって私はその手を引き抜いた。

「診察は終わりだよ」
 その子の目を真っ直ぐ見る事が出来なくて、デスクの上のカルテへと視線をうつした。

「おわり? もう、そっか。それでぼくはどうすればいいのかな?」
「特に何もないよ」
「なにそれ」

 時間が必要なんだ。
 時間が経てば、君のキボウ病はゆっくりとゼツボウ病へと遷移していく。
 熱いミルクが冷たく冷めていくように。
 水に垂らした染料のように。
 口に出した願いが盲信へと変わるように。

「そっか。じゃあぼくはもうかえるね。ありがとせんせい。いこう、ララ」
 微かな電子音。育児用アンドロイドが私の口座へと、謝礼を振り込む。
 古い丸椅子が軋む音と、リノリウムを裸足の足が叩く音。

「そういえば、なんで裸足なんだい?」
「なんでだとおもう?」
 育児用アンドロイドがドアを開く。その子はそこを通りながら、本当におかしそうに笑った。
「ぼくがキボウ病だからかな? それともゼツボウ病にかかりはじめているせいかな? せんせいはどっちだとおもう? どっちがいい?」

 私が何か返事する前に、その子はさっさと出て行ってしまった。

「またくるね、せんせい」

 何か、とは何か。私は何かを言いたかったんだろうか。
 あの子が次に来た時、私はその何かを口に出す事が出来るのだろうか。
 来て欲しいのだろうか?


 何も書いてないカルテを紙飛行機にして、狭く無彩色な室内へと、飛ばした。